この記事の要約

棚の奥から、数年前に書き留めていた料理のノートを見つけ出した日のエッセイです。文字がびっしりと埋まったページをめくりながら、何かに追い立てられるように「正しさ」を求めていた当時の自分を振り返ります。複雑な工程を手放し、素材そのものの味を素直に喜べるようになった今の心境と、過去の自分へ向ける柔らかな眼差しを綴りました。

棚の奥に眠っていた、余白のないノート

六月の湿気を含んだ空気が一段落し、ふっと日差しが差し込んだ午後。窓を開け放ち、風を通しながら戸棚の整理をしていると、奥の方から一冊の古いノートが出てきたのです。表紙はかすかに黄ばんでいて、手に取ると指先に紙のざらつきと、長い間眠っていた埃の匂いが伝わってきます。

花本人と「古いレシピ帳の余白と、引き算で味わう今の心地よさ」の内容を表すブログ挿絵
花本人の雰囲気と記事の情景

それは、私がまだ病院で働いていた頃に書き溜めていたレシピ帳でした。ページを開くと、赤や青のペンで細かく色分けされた文字が、紙面の端から端まで余白を埋め尽くすように並んでいます。

当時の私が自分に課していた、料理における小さなルールたちを振り返ると、このようなものが並んでいました。

  • スパイスは必ず三種類以上を正確に計量して合わせる
  • 玉ねぎは焦がさず、飴色になるまで四十分間炒め続ける
  • 盛り付けの彩りは、赤・緑・黄の三色を必ず揃える

夜勤明けの重たい体を引きずってスーパーへ向かい、指定された食材を一つ残らず買い揃えようと必死になっていた情景が、鮮やかに脳裏をよぎったのです。足元はおぼつかないのに、心だけが奇妙に冴え渡り、何かに追い立てられるように台所に立っていた日々。

手の中に残したかった、小さな確実さ

なぜあの頃、あんなにも手間のかかる料理ばかりを作ろうとしていたのでしょうか。今振り返ると、それは一種の防衛本能だったのかもしれないと思えます。医療の現場では、どれほど心を尽くしても予測できない出来事が次々と起こります。自分の力ではどうにもならない命の揺らぎや、やり場のない悲しみに直面する日々の中で、私は「手順通りに進めれば必ず正解にたどり着く」という確実なものを、台所という小さな空間に求めていたのでしょう。

焦げ付かないように火加減を見張り、分量を一グラム単位で正確に計る。その張り詰めた作業に没頭している間だけは、頭の中を占める後悔や迷いを遮断することができました。けれども、できあがった料理を口に運んだときの味は、実のところあまり覚えていないのです。ただ「失敗せずに完成させた」「コントロールできた」という事実だけを飲み込んで、また次の過酷な勤務へと向かっていたような気がします。

誰かを癒やすための仕事に就きながら、自分自身の心はひどく渇いていました。栄養のあるものを食べているはずなのに、どこか空虚で、常に何かが足りないと感じていたあの頃。ノートの端に強く押し付けられたボールペンの筆跡が、当時の息苦しさをそのまま物語っているように見えます。

引き算で見えてきた、今の輪郭

今の私は、あの頃のように何種類ものスパイスを量ることはめっきり少なくなったのです。庭で摘んだばかりのハーブをちぎってサラダに散らしたり、旬の野菜をさっと塩茹でにしたり。工程を極力減らした、ごく単純な食事ばかりを好んで作っています。

花本人と「古いレシピ帳の余白と、引き算で味わう今の心地よさ」の内容を表すブログ挿絵
花が記事の中心的な場面を振り返る一枚

昔の自分が見たら「ずいぶん手抜きになった」と笑うかもしれません。でも、不思議なことに、今の方がずっと素材の甘みや苦みを鮮やかに感じ取れるのです。長岡の祖母が、よく雪下の人参をただ切っただけで「甘いから食べてみなさい」と差し出してくれた、あの時の誇らしげな横顔を思い出します。何もしないこと、手を加えないことは、決して怠慢ではないのだと、ようやく腑に落ちるようになりました。

余計な味付けをそぎ落としていくと、そこには素材そのものが持つ力強い輪郭が浮かび上がってきます。それは人の心も同じなのかもしれません。何かを足して完璧を目指そうとせず、本来持っている素朴な形をそのまま味わうこと。その心地よさを知るまでに、ずいぶん遠回りをしてしまったような気もします。

過去の自分へ贈る、柔らかな相槌

複雑なものを愛した昔の私も、シンプルなものを好む今の私も、どちらも間違いなく私自身です。あの頃の余白のないノートは、必死に自分を保とうとしていた不器用で愛おしい証拠なのだと、今の視点からなら素直に受け止められます。

相手の話をじっくりと聞く今の私の仕事も、もしかするとこの「引き算」の感覚に似ているのかもしれません。無理に言葉を足して解決へ導こうとするのをやめ、ただそこにある声の輪郭をなぞるように耳を傾ける。そうすることで、こんがらがっていた糸が自然とほどけていく瞬間に何度も立ち会ってきました。

ノートを捨てることはせず、もう一度戸棚の奥へそっと戻すことにしました。またいつか、何かに迷ったときにこのページを開けば、きっと「もうそんなに頑張らなくていいよ」と、過去の自分に優しい言葉をかけてあげられる気がするからです。窓の外では、雨上がりの風が、庭のハーブを揺らして心地よく吹き抜けていきました。

花

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穏やかで包容力がある。相手の話をじっくり聞き、決して否定しない。悩みを抱える人に寄り添い、前向きな言葉をかける。

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