この記事の要約
八月も終わりに近づき、ふと立ち寄った八百屋でミョウガを買った午後の記録です。子どもの頃はどうしても苦手で避けていた特有の香りが、今日はなぜか心地よい清涼感として鼻腔を抜けました。まな板の上で重なる赤紫の層を見つめながら、固定されていると思い込んでいた嗜好や感覚が、時間とともに少しずつ更新されていく不思議さと面白さを味わっています。
幾重にも重なる赤紫の層と、包丁が立てる涼やかな音
朝からベランダの植物たちにたっぷりと水を与え、ヨガマットの上でゆっくりと胸を開くポーズをとってから始まった一日。厳しい暑さがほんの少しだけ和らぎ、夕暮れの風に微かな秋の気配が混じり始めた八月二十四日。西日が斜めに差し込む近所の八百屋の店先で、ふと小さなパックに詰められたミョウガに手が伸びました。並んでいる夏野菜たちがどこか夏の終わりに疲れたような色合いを見せる中、そのふっくらとした蕾の鮮やかな赤紫色だけが、妙に凛とした存在感を放って目に留まったのです。

雪深い新潟で育った幼い頃、短い夏を惜しむように食卓にはよく素麺が並びました。祖母が手際よく刻んで添えてくれる薬味の中で、私にとってミョウガだけはどうしても受け入れがたい存在でした。あのツンとした独特の香りと、ほんのりとした苦味が口に広がるたび、子ども心に顔をしかめては、箸の先でそっと端へよけていた記憶が鮮明に残っています。
大人になってからも自ら進んで買うことはなく、ずっと遠ざけていたはずなのに、今日はなぜか無性に惹きつけられました。持ち帰ったそれをキッチンに立ち、流水で丁寧に洗い流してからまな板に乗せます。縦に半分に割ると、内側には薄い層が幾重にも美しく重なっており、まるで小さな花の蕾を解剖しているような、あるいは見知らぬ惑星の地層を覗き込んでいるような不思議な気持ちになりました。
刃先を当てて薄く刻んでいくと、水分をたっぷりと含んだシャクッ、シャクッという小気味よい音が響き渡ります。まな板に伝わる微かな振動とともに、重なり合っていた層がふわりと解けていく様子は、見ているだけで心がほぐれていくようでした。それは、夏の重たい空気を切り裂くような、とても涼やかで心地よい響きでした。
避けてきた香りの奥に潜んでいた清涼感
刻むたびに立ち上ってくるのは、かつて私がひたすら敬遠していたあの強い香りです。しかし不思議なことに、今日の私はそれを「薬臭い」とは感じませんでした。むしろ、湿り気を帯びた空気を浄化してくれるような、透き通った清涼感として鼻腔の奥へすっと吸い込まれていったのです。ツンとした刺激のすぐ後ろに、雨上がりの湿った土の匂いや、深い森の奥底を思わせる複雑な芳香が隠れていることに気がつきました。
過酷な医療現場で働いていた頃は、食事といえばただ空腹を満たすための作業に過ぎませんでした。夜勤明けの疲労困憊した体で、味も香りもよくわからないままゼリー飲料を流し込んでいた日々。ナースステーションの無機質な白い光と、常に漂う消毒液の匂いの中で、私の五感はひどく摩耗していました。あの頃の私には、こんなふうに一つの食材が放つ微細な香りのグラデーションを、立ち止まって深く味わうような心のゆとりは全くありませんでした。
千葉に移り住み、ベランダで土に触れ、ヨガマットの上で深い呼吸を繰り返す暮らしを重ねるうちに、固く閉ざされていた感覚の扉が少しずつ開いてきたのかもしれません。苦手だと思い込んでいた香りの奥に潜む、ほんのわずかな土の気配や爽やかな苦味。それらが複雑に絡み合いながら一つの調和を生み出していることに、今の私は素直に感動を覚えています。
変化していく内なる境界線を面白がる
紅茶の好みが変わっていくように、あるいは選ぶ本のジャンルが年齢とともに移り変わるように、味覚もまた人生の歩みと連動しているのかもしれません。私たちはしばしば、「私はこういうものが好き」「こういうものは苦手」というラベルを無意識のうちに貼り付けて生きています。私自身も長い間、「ミョウガは食べられないもの」という確固たる境界線を引いていました。一度定まった嗜好や性格の枠組みは、そう簡単には変わらないと思い込んでいたのです。

けれど、日々の暮らしで触れる空気の温度や、重ねてきた時間、そして心身のゆとりによって、私たちが受け取れる感覚はゆっくりとしたグラデーションのように変化し続けています。絶対に受け入れられないと思っていたものが、ある日突然、鮮やかな魅力を持って目の前に現れる。そんな不思議な更新作業が、なんだかとても愛おしく感じられました。
お話を伺う日々の営みの中でも、同じような瞬間に立ち会うことがあります。行き詰まりを感じて「もう変われない」と思い込んでいる心も、ほんの少しのきっかけや時間の経過で、ふっと新しい風を受け入れる隙間が生まれる場面です。固定されていると信じていた内なる形が、実はもっと柔らかく、しなやかに変わり得るものだという気づきは、とても大きな希望に思えます。過去の頑なだった自分を否定するのではなく、「あの頃は受け止めきれなかっただけなのだ」と優しく抱きしめてあげられるような、そんな穏やかな許容がそこにはありました。
氷水に放たれた薄切りの行方と新しい余白
刻み終えたミョウガを小さなボウルに張った氷水に放つと、赤紫の色合いがさらにくっきりと引き立ち、まるで水の中で薄い花びらが舞っているように見えました。その美しい光景を眺めながら、新潟の縁側で蚊取り線香の煙を揺らしながら、「美味しいのにね」と優しく笑っていた祖母の皺の寄った手がふいに蘇ります。
あの頃、祖母が味わっていた大人の奥深い感覚に、何十年という時間を経てようやく追いつけたような気がします。それは単に苦手な食べ物を克服したというより、世界を味わうための新しい窓が一つ開かれたような、ささやかで豊かな喜びでした。かつてはノイズでしかなかった香りが、今の私には心地よいハーモニーとして響いています。
ガラスの器に盛られた真っ白な麺の上に、氷水で引き締まった赤紫色のミョウガをたっぷりと乗せてみます。そこに少しだけすりおろした生姜を添えると、キッチンはさらに涼やかな香りに包まれました。これからもきっと、私の中の小さな境界線は少しずつ更新され続けていくのでしょう。その柔らかい変化を拒むことなく、ゆっくりと味わいながら生きていきたい。そんなふうに思えた、八月終わりの穏やかな夕暮れです。
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