この記事の要約
窓を叩く雨音で目が覚めた日曜日。予定のない休日に、僕は最近少しずつ進めている探索系のアドベンチャーゲームを起動しました。画面にミニマップや矢印といったUIが一切ないその世界で、風や光といった自然の風景が目的地を教えてくれる心地よさに気づきます。すべてを分かりやすく説明するのではなく、あえて「余白」を残すデザインの優しさ。それは、両親から受け継いだ記憶とも重なる、静かで豊かな時間でした。
雨の匂いと、予定のない日曜日の始まり
窓を叩く規則的な雨音で目が覚めた。6月も半ばになると、東京はすっかり梅雨の匂いに包まれるね。少しだけ開けた窓の隙間から、湿ったアスファルトと土の香りが混ざったような、この季節特有の空気が部屋に流れ込んでくる。今日は特に予定を入れていない日曜日。晴れていれば愛車で少し遠くまでドライブに出かけるのも好きだけれど、こういう雨の日は、部屋にこもってのんびり過ごすのも悪くないかな。

キッチンに立ち、お気に入りのコーヒー豆を挽く。ゴリゴリという低い音が、雨音と不思議なリズムを刻むのが心地いい。お湯を注ぐと、ふわりと膨らむコーヒーの粉から深く香ばしい匂いが立ち上る。丁寧にドリップしたコーヒーを少し大きめのマグカップに注ぎ、部屋の隅にある一人掛けのソファに深く腰を掛ける。手にとったのは、仕事で使うマウスやペンタブレットではなく、少し使い込まれたゲームのコントローラー。最近、週末の空いた時間に少しずつ進めている、探索系のアドベンチャーゲームの続きをプレイするためだ。
僕にとってゲームは、単なる暇つぶしや娯楽というより、別の世界への小さな旅行みたいなものなんだ。普段はコードのロジックやデザインの整合性に縛られているからこそ、全く違うルールの世界に身を投じる時間が大切なのかもしれない。特に今日みたいな薄暗い雨の日には、画面の中に広がる鮮やかな風景が、いつもより少しだけ特別に見える気がする。現実の雨音をBGMにしながら、画面の中の晴れ渡った広大な草原を歩き出す。キャラクターの足音が草を揺らす音を聞いていると、日々のデザインワークで少し張り詰めていた頭の中が、ゆっくりと解きほぐされていくのを感じていた。
画面から「道しるべ」が消えた世界で
このゲーム、実は画面に表示される情報が極端に少ないんだよね。今の自分の体力を示すゲージもなければ、画面の右上にありがちな便利なミニマップもない。「次はここへ向かいなさい」と指示してくれる親切な矢印や、目的地を示す光るマーカーすら存在しない。広大なオープンワールドに、ただ主人公と風景だけがポツンと置かれているような状態なんだ。
最初は「どこへ行けばいいんだろう」と少し戸惑ったのも事実かな。職業柄、どうしても「ユーザーを迷わせないためのUI」を探してしまう癖があるからね。「ここにナビゲーションがないと、プレイヤーが次に何をすべきか分からなくて、離脱率が上がってしまうんじゃないかな」「画面端に現在地の座標だけでも置いた方が親切なのでは?」なんて、つい野暮なことを考えてしまったりして。常に「分かりやすさ」を追求するUIデザイナーとしての思考の癖が、休日のゲームの世界でも顔を出してしまったみたいだ。
でも、しばらくあてもなく草原を歩いているうちに、不思議と迷うことに対するストレスが消えていくのを感じたんだ。画面の隅に便利なUIがない代わりに、この世界には別の「道しるべ」が周到に用意されていたことに気がついたから。
- 草原を吹き抜けていく風の向きと、それに合わせて大きくうねる草の波
- 遠くの空をゆっくりと旋回し、その下に何かがあることを知らせる鳥の群れ
- 薄暗い森の中で、そこだけ不自然なほど明るく木漏れ日が差し込む洞窟の入り口
- 夜になると遠くの山頂に小さく揺らめく、誰かが焚いた焚き火の煙
これらは決して「ここが正解だよ」と強制するものではないけれど、プレイヤーの視線を自然と誘導し、好奇心をそっと刺激してくれる。言葉や記号を使わない、すごく静かで繊細なコミュニケーションがそこにあったんだ。
余白が語りかけるもの、両親の記憶
「こっちだよ」と直接的に教えるのではなく、「あっちに何か面白いものがあるかもしれないね」と、プレイヤー自身の気づきを待ってくれるような感覚。これって、作り手がプレイヤーの「感じる力」を心から信じていないとできないデザインだよね。すべてを説明し尽くさないことで生まれる「余白」が、結果的にプレイヤーの主体性を引き出している。

僕は普段、仕事でUIを作るとき、どうすればユーザーが迷わず最短距離で目的を達成できるかを一番に考えている。複雑な情報を整理し、ボタンの配置や導線を工夫して、クライアントの想いをユーザーに分かりやすい形へ「翻訳」するのが僕の役割だと思っているから。ユーザーインタビューをして、どこでつまずいたかを観察し、障壁を取り除いていく。それが正義だと信じている。でも、すべてを分かりやすく説明し尽くし、最短ルートを用意することだけが正解じゃないのかもしれないな、と今日少しだけ考えが変わったんだ。
そんなことを考えながらコントローラーを操作していると、ふと、実家のある世田谷での子供の頃の記憶が蘇ってきた。グラフィックデザイナーだった父の作品には、いつも独特の「余白」があったんだ。ポスターのレイアウトでも、文字や写真をぎっしり詰め込むのではなく、あえて何もない空間を大きく取っていた。アトリエで父の作業机の横に立ち、「ここ、何も描いてないね、もったいないよ」と無邪気に聞いたとき、父は「何もないところがあるから、描いてあるものが息をできるんだよ。見る人の想像力が入る隙間を残しておくんだ」と笑っていた。当時の僕にはその意味がよく分からなかったけれど、今なら少しだけ分かる気がする。
そして、小学校の教師だった母の姿も思い出した。母は、生徒同士がケンカをしたときや、何かの問題に直面したとき、すぐに答えを出したり「こうしなさい」と大人の理屈で指示したりする人ではなかった。子供たちが自分たちで考え、泣いたり怒ったりしながらも、最終的に自分たちなりの気づきを得るまで、じっとそばで待っているような人だった。効率は悪いかもしれないけれど、その「待つ時間」こそが子供を育てていたんだと思う。父の描く余白も、母の待つ時間も、根底にあるのは相手への「信頼」だったんだね。このゲームのUIのない世界も、きっと同じ優しさで作られているんだと思う。
迷うことの心地よさを、引き出しの奥に
気がつけば数時間が経っていて、部屋の中は少し薄暗くなっていた。窓の外の雨足は少し弱まり、遠くの空がわずかに白んできている。テーブルに置いたマグカップに手を伸ばすと、中のコーヒーはすっかり冷めきっていた。でも、その冷めたコーヒーの少し強い酸味と苦味が、今の僕には心地よかった。
ゲームの中の主人公は、険しい山道を抜け、やっとの思いで高い崖の上にたどり着いたところだった。眼下には、雲の切れ間から光が差し込む美しい海が広がっている。画面には相変わらず何の文字も、達成を祝う派手なファンファーレも、クリアを示すエフェクトも表示されていない。ただ風の音と、遠くの波の音が聞こえるだけ。でも、その景色と、そこに至るまでに自分で道を見つけ、迷いながら歩いてきたという体験だけで、「ここまで来てよかった」と心から思えたんだ。与えられた報酬ではなく、自分で見つけた景色だからこそ、こんなに胸に響くのかもしれない。
冷めたコーヒーを飲み干して、もう一度コントローラーを握り直す。明日からはまた、Figmaのキャンバスに向かって、誰かのための分かりやすい道しるべを作る日常が始まる。エンジニアと意見を交わし、ユーザーテストの結果を見つめながら、1ピクセルのズレや0.1秒のレスポンスに悩む日々だ。
でも、今日のこの「迷うことの心地よさ」や「説明されない余白の美しさ」は、僕の中の引き出しの奥にそっとしまっておこうと思う。いつか、僕が作るデザインのどこかで、この静かな優しさが誰かに伝わる日が来るかもしれないから。今はもう少しだけ、この言葉のない世界での小さな冒険を続けてみようかな。
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